Just snaps in the island

撮りたての写真は、自分ではなかなか冷静に見る事が出来ない。
しばらく置いておくとようやく、少し冷静に自分の写真を見直す事が出来る。
そうして時間の篩いを経た写真は、Les bornesに上げていこうと思う。
それに対してこちらは、質より量w
組み合わせた写真から旅の雰囲気を感じてもらえれば嬉しい。

Island sea

仕事で、初めて訪れた島。
そこで見たものを
・海
・散歩写真
・市場
・市場の人々
・ 子供たち
という5つの形で切り取ってみた。
先ずはこの島で感じた海。

9ヶ月振りの写真ブログの再開。
レンタルサーバー上のWordPressにこちらの内容を移行しつつあったが、ブログのメンテナンスの手間を考え、結局こちらを使い続ける事にした。
またよろしくお願いします。

Matata

ラクダでサハラ砂漠を横断したいという夢を持ち、大学卒業が決まると卒業式も待たずにサハラに出掛けた。
まずはニジェールからモーリタニアまで、ヒッチハイクで自分の目でルートを調べ、その途中、1年で最も暑くて乾燥した5月初旬に、マリのトンブクトゥからアラウアン往復の約500km、ガイドを付けラクダで旅をしてみた。
トンブクトゥ〜アラウアンのラクダ行は、僅か2週間弱だったが、ラクダでのサハラ横断は十分可能だという感触を持てた。
しかし、アラウアンに着く前にひどい砂嵐でラクダを1頭失い、3人で2頭のラクダに乗って帰ってくることになったり、砂漠の恐ろしさも身を持って学んだ。

そこで旅の反省を踏まえ、まずは1年間掛けて、ラクダの扱い方や砂漠での暮らしを学ぶことにした。
そしてアラウアンへの旅でガイドとして世話になったアッルーさんに頼んで、彼のもとに住み込みさせてもらうことになった。
当時彼は離婚したばかりで、トンブクトゥから3kmほどのティン・タハッテンに母親のマタータさんと二人暮らしだった。
なだらかな砂丘の上、刺々のアカシアの枝で作った腰よりも低い囲いの中に、テントが一張りと屋根もない鍋を置く調理場があるだけの彼の敷地に、アッルーさんの母マタータさんやその友達の女性たちが私のためにもうひとつ革のテントを張ってくれた。

そのテントで1年間、マタータさんのおいしい遊牧民トゥアレグの料理を食べて暮らした。
砂漠の暮らしでは、ジーパンとTシャツより、遊牧民の服装の方が遥かに動きやすく過ごしやすかったので彼らと同じ伝統的な衣装を着ていた。
ゆったりしたズボン(パキスタンのサルワールのようなもの)には最近は木綿の紐をベルトとして通すが、マタータさんは私に伝統的な革のベルトを編んでくれた。
羊の革を剃刀で2mm以下の幅に細く長く切り、それを編んで作る、とても手の込んだものだった。
それをもらった時の嬉しさは今もはっきりと憶えている。

1年間の「修行」を終え、いよいよラクダでのサハラ横断の旅のためにモーリタニアに向かうために旅立つ時、マタータさんは私にドゴヌを作って手渡してくれた。
ドゴヌは、ミレット(トウジンビエ)やソルガム(コーリャン)を粉にして、保存中に醗酵しないようにしっかり乾燥させるために炒り、それに米粉や、やはり粉にしたバオバブの実やチーズを混ぜた保存食だ。
水に溶かすだけでいいのでラクダに乗ったままでも食べられる。
遊牧民の旅には欠かせないものだ。

マタータさんに作ってもらったドゴヌは、まさかの時の非常食として、旅の間ずっと私の心を支えてくれた。
モーリタニアからラクダで再びトンブクトゥに辿り着いた時、もちろんマタータさんにも再会し、今度は自分から頼んでまたドゴヌを作ってもらった。
サハラ横断の旅は大旱魃のためにマリとアルジェリアの国境で中断したが、そこまで辿り着けたのもマタータさんのドゴヌのお陰だ。

アッルーさんにはその後、私が1980年代後半にNGOの仕事でマリに戻った時、またいろいろお世話になった。
さらにその後、マリ北部が内戦状態になった時、日本に戻った私が砂漠に暮らす妻(当時フィアンセ)と往復数ヶ月掛かる手紙でなんとか繋がっていられたのも、ふたりの手紙をアッルーさんがラクダで町と砂漠を往復して届けてくれたからだった。

最後にアッルーさん一家に会ったのは家族でマリに出掛けた2006年の8月だった。
マタータさんもまだ元気そうだった。
アッルーさんからするといつまでも遊牧民として半人前の私は「兄弟というより息子」だと言う。
しかし私にとってマタータさんは、やっぱり祖母ではなく母のように思える存在だった。
そんなマタータさんも、老齢でここ3年ほど目が見えないと聞いていた。
そして先日、マタータさんの訃報が届いた。

トンブクトゥの町の人口が増え、かつてアッルーさん一家と暮らしたティン・タハッテンも、もうトンブクトゥの町の一部になってしまった。
そのため、遊牧民のアッルーさん一家は家畜の餌となる草木のためにトンブクトゥから100kmほど西のティン・テーシャック(毎年1月に行われる「砂漠のフェスティバル」の開催地イサカンの近く)に移り住んでいる。
以前ならその遠さから、訃報を聞いてもすぐには何もできなかっただろう。
しかし、一緒に暮らした1980年代には想像もできなかったことがだが、今ではアッルーさんも携帯電話を持っている(ということはティン・テーシャックにも電気が来ているんだ!)。
さっそく妻とスカイプアプトでアッルーさんに電話して、弔辞を伝えることができた。

今朝は起きてからずっとマタータさんことをいろいろ思い出していた。
あとでしまい込んであるポジフィルムを出して彼女の写真を探してみたい。
当時、女性の写真は殆ど撮っていなかったので、1枚もないかも知れない。
でも、もし見つかったら、プリントしてアッルーさんに送ってあげよう。