セバスチャン・サルガドの写真展「アフリカ」を見て(1)

いつかこんな写真が撮りたい、そう思い続けている写真が何枚かある。
最初の1枚はRoland Michaud氏のアフガニスタンの男のポートレートだった。
それからJean-Marc Durou氏のトゥアレグやHenri Cartie-Bresson氏のインド。
そしてサルガド氏(以下敬称略)のアフリカの人々。

写真家自身の構成によってひとつのテーマでたくさんの写真が並ぶ写真展は、お気に入りの数点の写真を自宅で見ているのと密度がまったく違う。
今回写真展「アフリカ」でサルガドの異なる年代の多くの写真を見て、彼の写真についてじっくり考える機会を得た。
写真を見ながら、あるいは写真展の余韻の中で感じたことを書いてみよう。

1)リアルさ

まず何よりも、撮り手と撮っている対象の「距離が近い」ことに感動した。
物理的な距離もそうだが、心理的な距離がとても近い。
写真を通して、写される人や情景と彼との繋がり、コミュニケーションが感じられる。

サルガドの写真は、アンリ・カルティエ・ブレッソンのスナップのように自分が不在ではない。
拒否されず、そこに存在する自分も含めて写真が成り立っている。
サルガドはきっと、慎み深く、しかし積極的にアフリカの人々と接しているのだろう。

そんなサルガドの対象との距離の近さが、写真に驚くべきリアルさをもたらしているのだと思う。
サルガドの写真は、テレビの向こうのどこか遠い世界の出来事でなく、切り取られた四角い枠を超え、360度自分のまわりに広がる世界を見せてくれる。
自分がそこにいて、自分自身がその出来事を体験しているように感じられる強さがある。

2)捨象化によるメッセージの固定

彼のモノクロ写真は、サルガド式写真演出とでも呼ぶべきものが徹底的に施されている。
撮った瞬間あるがままではない。
強い演出が美しさを生み出している。
しかしそれは絵画的、芸術的なだけではない。

彼がモノクロにこだわっているのは抽象化するため以上に捨象化するためではないのか。
その捨象的演出こそがサルガド式写真演出ではないのかと思っている。
抽象化でなく捨象化するということは、見る者の数だけ枝分かれする無限の想像力を喚起するものではない。
むしろ見る側の想像力の分枝を剪定する行為ではないのか。
捨象化された彼の写真は、言葉以上に明確で強いメッセージを持っている。

3)見えない真実

インパクトが強過ぎる。重過ぎる。
サルガドの写真は素晴らしいが見ていて疲れてしまう。

サルガドの伝えているのは確かにアフリカの真実だ。
しかし明るい月が出ている夜には星々が見えないように、それ故に見えなくなってしまうアフリカの別の真実もある。
サルガドが何かを隠そうとしているわけではない。
しかし強い意図とメッセージが隠してしまっている、アフリカの真実が数多くある。

4)目線

サルガドはとてもうまくアフリカの人々と接している。
しかし写っている人々と同じ目線ではない。
内戦や飢餓の中では仕方がないかも知れないが。
それが写真に緊張感を生み出している。
だから彼の写真を見るととても疲れるのだろう。

サルガドのアフリカを見終わり、大きな感動と疲労感と共に思ったのは「アフリカを、そこに暮らす人々をわかった気になっちゃいけない。」という気持ちだった。
素晴らしい写真ばかりだったからこそ、心が警鐘を鳴らした。
文化人類学を学ぶものの自戒を込めて。